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JUNGHANSマックス・ビル、オリンピック公式計時、電波時計…多面体的活動でドイツ時計の雄となったユンハンス 02

“黒い森”から生まれたのは郭公時計だけではない
19世紀半ばから始まるユンハンスの精密時計物語

シュヴァルツヴァルトのラウターバッハ渓谷に佇むユンハンスの本社・工場

シュヴァルツヴァルトのラウターバッハ渓谷に佇むユンハンスの本社・工場。初の自社製時計が誕生した1866年頃に描かれたイラストだが、現在の写真(P.03参照)でも分かるように背後にはかなり急峻なラウターバッハ峡谷が存在するのが分かる。1918年にテラス式ビルディングが建築されるまでユンハンスは当地にて社屋の建て増しを続け、会社規模は徐々に拡大、1903年にはついに従業員数3000人、1日に9000個の時計を製造する規模にまでに成長する。


 19世紀は欧米を中心に世界が工業化の道を急速に歩み始めた時代である。1830年には英国の港湾・産業都市リバプール~マンチェスター間に世界初の本格的な鉄道が開業する(開業距離72.4km)。この新システムはドイツ、フランス、米国へと瞬く間に伝えられ、約20年後の1849年には総開業距離は3万17.5kmにまで達した。ちなみに日本初の鉄道開業は1872年(明治5年)の品川~横浜間の仮開業を経て同年に本開業した新橋(現・汐留)~横浜(現・桜木町)間である(開業距離29km)。

(※参考資料:『日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで』老川慶喜 著 中央公論新社 刊)

 ユンハンスが現在のドイツ南南西の突端部に位置する通称“黒い森”と言われるシュヴァルツヴァルトに創業したのは、この19世紀半ばを少し超えた1861年4月14日のことだ。当時のドイツはビスマルクによるドイツ帝国(1871-1918)誕生の10年前であり、帝国誕生2年後の1873年には、同国南西部のザール川沿いの街フェルクリンゲンにドイツ初の製鉄所が創設されている(フェルクリンゲン製鉄所は1994年にユネスコ世界遺産に登録)。

 創業者エアハルト・ユンハンスは1823年1月1日、ウィーン体制下の保守的な政治時代に生まれた。ドイツは産業革命と経済活動を拡大しつつあり、その最中に生を受けたエアハルトが新種の気象を持っていたことは、その後の彼の足跡を見るとうなずける。彼のキャリアはシュランベルクの麦わら帽子工場の見習いから始まり、やがてその工場の共同経営者にまで上り詰める。1859年に独立を決意したエアハルトは、義理の兄弟ヤコブ・ツェラー=トブラーと共にガイスハルデに土地を購入。工場建設地は経営不振に陥っていた精油工場のあるラウターバッハ峡谷の一区画であった。この地で彼らはふたりの名前を冠した時計部品工場「ツェラー&ユンハンス(Zeller&Junghans)」社を設立、これが1861年のユンハンス社誕生となった。しかし創立と同時に完全な時計製造を行なっていたわけではなく、当初はシュヴァルツヴァルト伝統の“郭公(かっこう)時計”の部品(木製ケース、ブロンズ板、針、ガラス製の小扉、ワイヤーフック、振り子の重りなど)を製造していた。しかし1866年、創業5年後にして初の自社製時計が誕生する。当時は外国からの安い輸入品によってシュヴァルツヴァルトの伝統的な時計作りに危機が迫っていたが、エアハルトは革新的な製造プロセスや新技術の導入で会社を成功へと導いていく。しかし彼は50歳を待たずして1870年にこの世を去ってしまう。

 ご存知のとおりシュヴァルツヴァルトは別名“黒い森”と呼ばれるほど豊かな森林地帯で、この別名の由来は当地が擁する広大な森の80%を樹皮が灰褐色や淡灰色の樅(モミ)と唐檜(トウヒ)が占めているからだ。アウトドア・アクティビティの地としても有名である。当然ながら林業や観光業が盛んである一方、精密機械の産業地としても有名で、前述した郭公時計は日本人なら一度ならずとも耳にしただろう(ちなみに“鳩時計”というのは間違いである)。

 まったくの余談だが、映画史に残る名作で以前より気になっていた科白(セリフ)がある。『第三の男』(原題『The Third Man』 製作国:英国、英国公開年:1949年、監督:キャロル・リード、脚本:グレアム・グリーン、音楽:アントン・カラス、出演:ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ、トレヴァー・ハワード)の有名なウィーンのプラター公園にある大観覧車のシークエンスだ。

 オーソン・ウェルズがジョゼフ・コットンに言う。


「兄弟愛のスイスでは500年の民主主義と鳩時計止まりさ」


 スイスなんて民主主義を実践しても所詮は鳩時計ぐらいしか作っていないだろう、とウェルズは民主主義を嘲笑うが、これはグレアム・グリーンの勘違いではないだろうかと以前より思っていた。まずスイスの鳩時計は確かにジュネーブの土産物店では見かけるが、国を代表するほどの製品ではない。ひょっとしたらすぐ北にあるドイツ・シュバルツバルトの鳩時計(これも間違いで正しくは「郭公時計」だが)とグリーンは取り違えた可能性がある。知り合いの時計専門誌の編集長に尋ねたところ「おそらくグリーンの勘違いではないでしょうか」ということだった。

 さらに余談(が過ぎる)だが、当作品のアントン・カラスのチター演奏によるテーマ曲はスタンダードナンバーとなり、1980年代頃に東京・恵比寿に工場を構えていたヱビスビールがTVコマーシャルに採用、今ではJR恵比寿駅のホーム発車メロディに使われている。私はこのホームに立つ度にオーソン・ウェルズの顔が頭を横切る。


合理的な生産方法で年間300万個の時計を製造

 1888年、ユンハンスは新しい商標登録を完了させる。当初は社名“JUNGHANS”の最初の文字「J」を中央にあしらった五角の星マークだったが、2年後の1890年には様式化された歯車を表す八角の星マークになり、「J」に加えて「UNGHANS」の文字も表記されるようになった。この八角星のマークと「J」のみのロゴは、オフィシャルタイムキーパーを務めた1972年のオリンピック・ミュンヘン競技大会のオレンジ色のゴールカメラにも使用されている(P.01参照)。

 ユンハンスの商標登録はこの分野での先進国=米国の影響が強く、当初アメリカ製ウォッチムーブメントを志向していた、と公式ホームページに記されている。商標登録完了の1888年という時を考えると、ひょっとしたら当時のユンハンスの経営者は、1876年の米フィラデルフィア万国博覧会に端を発し、スイス時計業界に震撼をもたらした「フィラデルフィア・ショック」を知っていたのだろうか、という推測が湧き上がってくる。この事件はスイス時計業界から当博覧会へ派遣されたエドワード・ファーヴル=ペレが、米国製ウォッチを母国へ持ち帰りテストしたところ、スイス時計より性能面で優れているという報告書が引き起こした一大事件だ。スイス時計の歴史・伝統が新興国の合理性に負けたのである。この話は隣国のドイツへも伝わったかもしれない。伝統的な徒弟制度で育てられた生え抜きの職人技も必要だが、一定レベルの腕を持つ職人なら誰でもが製作可能な高精度時計の量産体制の確立、という合理的な考え方が米国式である。当国ではこの精神が銃や自動車、戦車、戦闘機にまで及んでいたはずだ。日本も60年後の太平洋戦争でこの事実を嫌と言うほど知ることになる。当時のユンハンスの経営者は米国から商標登録という概念を取り入れたが、同時に米国流の合理的な時計製造哲学も輸入したかもしれない。もしこれが正しいのなら、現在のユンハンスの企業理念はこの時代にすでに確立していたことになる(※参考資料:『TIME SCENE Vol.10』徳間書店)。

 1903年になるとユンハンスはすでに3000人の従業員を擁し、1日に9000個、1年で300万個の時計を製造していた。ちなみにswissinfo.chの2020年7月30日のリポートによれば、2019年のドイツ製時計の年間生産量は1690万個、スイスは2060万個なので100年以上前のユンハンスの年間生産量の凄さが分かる。この頃ユンハンスの製造工場と支店は、シュランベルクを含めるとドイツ国内ではロッテンブルク、シュヴェニンゲン、ダイスリンゲン、ラウターバッハの計4地域、国外ではオーストリアのエーベンゼー、イタリアのヴェニス、フランスのパリにあった。


ユンハンスの表玄関「ユンハンス・テラスビルディング」完成

 第一次世界大戦終結後、当時のユンハンス経営者であるアーサー・ユンハンスは、シュヴァルツヴァルト峡谷のシュランベルクにある工場敷地内の、最も急勾配な場所に本社・工場を建設することを決断する。しかもその山肌をなぞるような階段式の建物である。こうして1916年に始まった工事は9階建てのテラス式本社・工場「ユンハンス・テラスビルディング」として1918年に完成する。建築家はフィーリプ・ヤーコプ・マンツ(Philipp Jakob Manz)。機能的建築物のパイオニアとされ、1920年代後半に彼の技術的な形式はバウハウス・スタイルを通じて、商業建設における美的・文化的シンボルの新しい表現手段へと発展した。このマンツ設計によるテラス式の本社・工場は、2018年の改修後「ユンハンス テラスビルディング ミュージアム」として、現在も周りの風景に馴染むようにその姿を留め、健在ぶりを示している。

 1930年代には自社設計・製造のムーブメントを腕時計に使用し始め、1936年には自社初のセンターセコンド式腕時計が登場。このモデルには元々スモールセコンドタイプのムーブメントを改良したCal.J80が搭載された。また当キャリバーの最上位クラスとなるCal.J80/2にはコート・ド・ジュネーブ装飾が施され「マイスター(Meister)」シリーズに採用される。同時にユンハンスは積極的な広告展開も行い、アールデコのこの時代から一般顧客に向けたブランド・アピール戦略を始める。そのひとつが、大きな目覚まし時計の鐘とコスチュームを身にまとう16人の若い女性たちを起用した「アラームクロックガールズ」だ。この広告は世間の注目を集め彼女たちの写真は世界中に広まった。

  • 1955年製造のクロノグラフ。スモールセコンド(9時)と30積算計(3時)を備えるツーカウンター・クロノグラフで、12カ所の凹部を持つベゼルが特徴
  • 1955年製造のクロノグラフ。スモールセコンド(9時)と30積算計(3時)を備えるツーカウンター・クロノグラフで、12カ所の凹部を持つベゼルが特徴。本社ホームページからダウンロードしたユンハンスのムーブメントリストにはあまりクロノグラフの記載はなく、前述のCal.88以外ではヴァルジュー7733、7734、7736をそれぞれベースとしたCal.688.11、688.10、688.12の記載がある。これら以外ではビューレン12ベースのCal.688.13が明記されているが、4ムーブメントともすべて1972年~1976年間の製造だ。なお、当モデルのほぼ復刻版といえる「マイスター パイロット」が現行コレクションにラインナップされている(Ref.027 3591 00。ステンレススティール・ケース、ケース径43.3mm。自動巻き、Cal.J880.4。100m防水)。1955年製造モデルとの明確な違いは、インデックスの書体、時分針などの針、スモールセコンドと30分積算計の位置の左右逆転、6時位置に“CHRONOGRAPH”の表記等。

 第二次世界大戦終結から6年後の1951年、ユンハンスはついにドイツ最大のクロノメーター製造会社にまで成長し、1956年には生産数が世界第3位になる。さらに1957年、初の自動巻きクロノメーター・ムーブメント「Cal.J83」が誕生。改良されたチラネジテンプや微調整機能を持つこのキャリバーは、自社の各シリーズに搭載された。

 このような順風満帆とも言える成長を記した1950年代初頭に、ユンハンスはキッチンクロックのような日用品使いの時計デザインを、外部に依頼するというプランを立てる。しかも依頼先はアーティスト。そこで白羽の矢が立ったのが、後に20世紀後半のユンハンス時計のアイコンとまでになったデザインを創案するデザイナー、マックス・ビルだ。1960年代、ついに伝説のデザイナーがユンハンスの歴史に登場する(次ページへ続く)。




協力:ユーロパッション / Thanks to:EURO PASSION




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