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LOUIS MOINET宇宙へのロマンを掻き立てる「ルイ・モネ」の世界 01

18世紀の時計界に革新をもたらした
伝説の時計師ルイ・モネとは?

ジャン=マリー・シャラー氏

「日本は伝統と現代が融合した、とても特別な国です。私は日本に来ると、いつも特別な経験を持って帰れるので、非常に楽しいです。今回は日本のスタッフと時計愛好家とのリレーションシップを確認し、もう一度、新たな世界に向かって走り出したいと思い、日本にやってきました」


 実はルイ・モネCEOのジャン=マリー・シャラーさんと私(名畑)とは長く深い親交がある。

 ジャン=マリーさんは1990年代のはじめ、スイスに本社を置き世界各地に支店を構える貿易会社「シイベル・ヘグナーSA」に勤務し、そこで1990年代のはじめに新規時計ブランドの開発を任命された。この時、ジャン=マリーさんが見出したのがアブラハム・ルイ・ペルレ。だが、シイベル・ヘグナーではブランド創設が見送られたことで、1994年に退社して投資家を探し出し、1995年にその名を冠したウォッチブランド「ペルレ」をスタートさせたのだ。

 私がジャン=マリーさんと出会ったのは、ちょうどその頃。さまざまな技工を凝らし、何人もの有能な職人や工芸家とのリレーションシップから生み出される「ペルレ」に興味を持った私はジャン=マリーさんと共にニューシャテル州各地に点在する職人を訪ね、その取材成果を時計専門誌で発表したのだった。

 やがて「ペルレ」を離れたジャン=マリーさんは、紆余曲折を経て2004年、新たに見出した伝説の時計師の偉業を現代に蘇らせるべく「アトリエ・ルイ・モネ」を創設。そこで、まず伺いたかったのは、ルイ・モネとはどんな時計師だったのかということだ。


「彼は情熱的な男でした。子供の頃から知的で才能に溢れ、いずれ何かを成し遂げるのではないか、という予見があったといいます。彼は天文や芸術など、さまざまなものに興味を持っていましたが、そのひとつが時計だったのです」(ジャン=マリー・シャラー氏)


 しかし、彼はフランスの田舎の農家に生まれたのですよね?


「ええ。しかし彼は1788年、それはフランス革命が起きる前年ですが、20歳で生まれ故郷フランスのブールジュからローマに向かい建築や彫刻、絵画を学びました。この時代、ローマに行くことは大変なことでした」(ジャン=マリー・シャラー氏)


19世紀のパリにおいて
時計の革新を牽引した伝説の時計師

ジャン=マリー・シャラー氏

「世界は新型コロナの流行によって多くのものを失ってしまいました。つまり世界は変わってしまったのです。ロンドンではキャッシュレス化が進み、取引には番号だけしか必要でなくなってしまいました。しかし、人間は番号ではないのです。リモート会議も普及しましたが、これでは人間としてのふれあいがありませんし、人生を共に楽しむことができません。このような世界は、私が理想としているものではありません」

「このイタリアで学んだ芸術についての素養と知識、技術が時計作りへと振り向けられたのです。この時代、いわば時計の黄金時代でした。さまざまな機能が考案され、革新に革新を積み重ね、大きく発達したのです。

 彼はさまざまな革新を実現すると同時に、その知識を同時代の時計師たちとわかちあいました。その実現のため、彼は20年をかけ、1848年に時計作りの百科事典である「Traite d'horlogerie(時計技術概論)」という本を完成させました。この本は19世紀における時計製造のリファレンス(標準)になりました。

 また、ルイ・モネはパリにクロノメトリーソサエティを設立し、会長に就任しました。彼の呼びかけに応じて多くの優秀な時計師が会員になり、彼の芸術としての時計作りが徐々にひろがり、彼は多くの時計師に有効な助言を与え、持っている情報のすべてを公開したのです。彼は自分の着想や技術を、決して隠すことはありませんでした。

 このようにルイ・モネは時計師として、そして芸術家としても素晴らしい人物であり、豊かな才能に恵まれていました。イタリアからパリに戻ったとき、アブラアン=ルイ・ブレゲはすでに有名でしたが、ふたりは知り合うと同時に緊密に情報を交換し、協力する間柄となったのです。そしてブレゲは、ルイ・モネを『彼は最高の時計師であり、僕の次に素晴らしい』と紹介するほどだったそうです。

 この時代、ルイ・モネの作った時計はナポレオン・ボナパルトや、アメリカ独立宣言の起草者のひとりで第三代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンなどが愛用しましたが、1816年、高い振動数を持つ世界初のクロノグラフを製作したことでも知られています」(ジャン=マリー・シャラー氏)


19世紀に驚異の高振動を実現した
クロノグラフの始祖ルイ・モネ

2012年5月14日にジュネーブのフォーシーズンズ ホテルで開催されたクリスティーズのオークションにおいてジャン=マリー・シャラー氏が落札した世界初のクロノグラフ

2012年5月14日にジュネーブのフォーシーズンズ ホテルで開催されたクリスティーズのオークションにおいてジャン=マリー・シャラー氏が落札した世界初のクロノグラフ。ルイ・モネは1815年に開発を開始し、1816年に完成させたという。

 これだけの業績を残したルイ・モネとジャン=マリーさんは、一体、どうやって出会ったのだろうか?


「それは彼が僕を呼んだのだと思います。きっかけは時計師のダニエル・ロートさんからのメッセージです。ロートさんは私に『ルイ・モネという名のもとに、もう一度、彼の業績を再生しなければいけない』と教えてくれたのです。

 やがて、ルイ・モネの業績を掘り起こし再生することについての思いが次第に強くなり、それは私の運命だと感じるようになったのです。しかし、簡単ではありませんでした。一時は、なんて馬鹿なことに手を出したのだろう、とさえ思いました。

 なぜなら、ルイ・モネの業績は忘れさられていて何も残っていなかったのです。その事実に直面したときには後悔さえしました。でもなんで2000年の時点でルイ・モネが完全に忘れ去られていたかについては大きな不思議でした。彼は時計界に大きなヘリテージを遺したはずなのに、それがゼロだったのです。ですから私の最初のミッションは、その彼のヘリテージを調べることでした」(ジャン=マリー・シャラー氏)


 それにしても、ジャン=マリーさんが、かつて手掛けた「ペルレ」はスイスの教科書に載るほどの有名な時計師だったが、ルイ・モネはスイス人ですら知らない、歴史に埋もれた存在だったとは驚きである。

 こうしてゼロからのスタートだったが、徐々にその実像が見えてきたという。


「ルイ・モネはナポレオンやアメリカ大統領、フランス女王に捧げた時計も製作しました。そのような時計についての情報が少しずつもたらされました。さらに驚いたのは、彼が21万6000振動/時という、非常に高い振動数を持つ脱進機を開発していたことです。18世紀に、このような高振動な脱進機を開発したことに私は衝撃を受けました。

 しかし、それが一体、どんな時計だったのかを探しましたが、誰も知らないのです。この事実にも驚きました。ところが、その4年後、クリスティーズのジュネーブでのオークションに、私が探し求めていた時計が出品されたのです。

 それは2020年5月。これを知って私は非常に興奮しました。でも、誰も、その歴史的な重要性を知らなかったし、注目もされませんでした。でも私は、それがルイ・モネが開発した極めて希少な高振動クロノグラフだと知っていましたから、是非、これを入手したいと考えました。

 スターティング・プライスはたったの5,000フラン。やがて徐々に入札価格は上がりましたが、なんとか62,500スイスフランで落札でき、その時計は私のもとにやってきました。この時計が落札された時点では、私以外、だれもその本当の価値を知りませんでしたが、翌日には、この時計の来歴が記載された資料を持ってきた人が現れました。そこから私は、この高振動クロノグラフの歴史を知ることができました。というわけで、この高振動クロノグラフには、時計作りの枠を越えた奇跡が重なっているのです」(ジャン=マリー・シャラー氏)






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