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FRANCK MULLER日本でのブティック・オープンが 大冒険の始まりだった

日本でのブティック・オープンが
大冒険の始まりだった

2000年代初頭に描かれた「トゥールビヨン」のイラスト

「イタリアの顧客だったら、時計を見て“ああ素晴らしい! ファンタスティック!”と、すぐに熱狂するでしょう。でも日本は、時計を手にしても何も言わない。表から見て、ひっくり返してじっくり見て、小さな傷を見つけて“オオッ!”と言うのです。だから大変でした」

 ところで、フランク ミュラーさんにとって、この25年間でもっとも印象深かった出来事は?


「それは難しい質問です。とてもとても、たくさんの思い出がありますからね。その中でも、なんといっても私にとって大切なのは日本という国があったこと。なにしろ私の最初のブティックは日本に開きましたし、私が自分のコレクションを最初に納品したのも日本でしたから。つまり私は常に日本を優先してきたのです。私の記憶が正しければ、最初にSIHHに出展したのは、確か1992年の3月でしたが、そのすぐ後に日本の東京・青山にブティックをオープンしました。

 この日本のブティックは、ケース・メーカーであるヴァルタン・シルマケスと一緒に仕事を始める前から計画に入っていたことです。逆に言えば、日本にブティックを開くことになったので、ヴァルタン・シルマケスと一緒に仕事をすることにしたのです。なぜなら、まとまった数のコレクションを生産するためにはコンスタントにケースを作らなければなりませんからね。

 こうして今、25年が経過し、私はまた日本に戻ってきました。これはいわば“グラン・アバンチュール(Grande Aventure=大冒険)”であり、まるで夢物語のような気もします。

 もともと、私は楽な仕事を始めたわけではありません。しかも日本で自分のブティックを出すことは、当時の日本の時計流通を考えると大変な挑戦でした。

 あの頃、時計を販売するには様々な中間業者を通さなければならなかったのですが、私はそれをしませんでした。なぜなら、当時の私は、時計愛好家にはある程度、名前が知られていましたが、一般には無名の存在でした。ですから流通の過程でたくさんの会社や人の手を経ると、一体、誰がこの時計を作っているのか、わからなくなってしまう恐れがあったのです。もちろん、私の時計を手にする人に時計のことを、どう説明するかも大切でした。しかし、そこに他の人が介在すると、個々の過程で説明を繰り返さなければならず、私の思いが顧客の方々に伝わなくなってしまうかもしれません。

 だからこそ私は、自分のブティックを出そうと決めたのです。

 しかし、それまでは時計師が自分のブティックを開くなんてこと自体が、極めて斬新でした。ただ、この古いカタログにあるように私は本当に若かったですし、エネルギーと希望に満ち溢れていたので、少しも苦にはなりませんでしたよ」

時計師としての技量を問う
日本市場が私を鍛えた

生活空間への広がりを見せるフランク ミュラーの創造の世界へといざなった

会場二階のふたつの小部屋には、時計という枠を超えて、日常生活での豊かな時間を演出する「フランク ミュラー フューチャー フォーム」のダイニングテーブルやテーブルウェアが展示され、生活空間への広がりを見せるフランク ミュラーの創造の世界へといざなった。

 つまり新しい流通システムを構築することがブティック・オープンの理由だったのですか? しかも、すでに有名だったイタリアより日本を優先した?


「その通りです。私はなにより日本を優先し、そこに新しい流通システムを構築するためにブティックを開いたのです。

 これは当時、私の代理店だった会社が決断したことでもあります。その会社は、青山でヴィンテージ・ウォッチのショップを経営しており、この分野の専門家でもありました。彼らと出会ったことが、ひとつのチャンスとなりました。

 そして、日本にブティックを開くことは、専門家が私に投資してくれるという実に恵まれた機会でもあったのです。

 とはいえ本当に大変でした。なんといっても日本のお客様は世界一時計にうるさいんですからね。これは言っておきますよ!

 たとえばイタリアの顧客だったら、時計を見て“ああ素晴らしい! ファンタスティック!”と、すぐに熱狂するでしょう。

 でも日本では、時計を手にしても何も言わないのです。表から見て、ひっくり返してじっくり見て、“えっ、こんなところも見るの?”と思うようなところを観察して、ほんの小さな傷を見つけて“オオッ!”と言う。だから大変でした。

 私はヨーロッパの人間です。半分はイタリア、半分がスイスですが、そういったヨーロッパの人間は気づかない、細かなところまで日本人は見て、それを表情に表さない。もちろん時計が非常に好きであることは理解できますが、そういった点が難しいと思いました。これが、いわば日本市場の特殊性ですね」


 そして1997年、フランク ミュラーはジュネーブにもブティックをオープンしますが、これはどのような経緯で実現したのですか?


「これも楽ではありませんでした。なにしろ資金が潤沢にあったわけではないですからね。

 ただ、ローヌ川の中州を選んだ理由は簡単です。時計学校で一緒に学んだ友人の実家が、その場所にあった薬局のオーナーでした。彼が、そこを売りたいというので、私が引き受けたのですが、資金がなかったので時計4本で支払いました。

 そんな苦労もありましたが、結果的にローヌ川の中州にある『ケ・ド・リル』と呼ばれる場所は、200年も前から時計師(キャビノチェ)たちが工房を構えて仕事をしていた由緒ある場所でした。

 もちろんジュネーブでベストな場所は、多くの時計店が並ぶローヌ通りですが、『ケ・ド・リル』も時計作りの伝統を受け継ぐ、大変意義のある場所なのです」


取材・文:名畑政治 / Report&Text:Masaharu Nabata
写真:江藤義典 / Photos:Yoshinori Eto(25周年記念インタビューを除く)


フランク ミュラー(FRANCK MULLER) についてのお問合せは……
フランク ミュラー ウォッチランド東京
東京都中央区銀座5-11-14
TEL:03-3549-1949
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※上記商品を取り扱っていない店舗もございます。

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フランク ミュラー(FRANCK MULLER)についてのお問合せは・・・

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